愛だのなんだのと言うまえに
Je ne suis pas la pour etre aime映画を観るまえから、観はじめてからも気になっていたこの題名「JE NE SUIS PAS LÀ POUR ÊTRE AIMÉ
邦題では「愛されるために、ここにいる」。
この映画といわず、日本の邦題の妙は常にあちこちで論じられているので、ここではこの邦題に関してはノーコメント、あえて原題にこだわって書いてみます。

原題を直訳すると“愛されるために、ここにいるわけではない”という意味ではありますが、これをそのまま解釈すると、みようによっては、愛に飢えたおやじがやせ我慢して「ほんとうは愛されたいんだけどそんなこと恥ずかしくて言えやしない」と言っているような感がなきにしもあらず。

しかし、“Je ne suis pas là pour ça(わたしはそのためにここにいるわけではない)”という言い方は、日頃から注意深くフランスのニュースやインタビュー、TVドラマ、映画の中などの台詞を聞いているとよく耳にする言葉でもあって、説明はちょっとむずかしいのですが、例えば、ある有名人が本業とは別件である場所にやってきたとします。そしてそこで人から、興味本位で本来の用件とは全然関係ないことを尋ねられたとします。そこでその有名人はこう言います。

「わたしはそのためにここに居るのはない」と。

彼は不本意なことを訊かれて憤慨しているのではなく、自分がそこに居る理由をわかって欲しいと言っているわけで、そこには「個」としての意思や存在を主張しているようでもあり、もし自分の存在を認めてくれないんだったら、彼がそこに居る意味もないわけです。

映画のなかでは、文句しかいわない父親をまえに主人公ジャン=クロードが「親父は俺のことなんてどうでもいいんだな!」とぶちキレるシーンがあるのですが、この場面はまさに、彼の存在というものを認めてくれない父親に憤慨し、個を主張している場面であって、今まで父親のためをおもって老人ホームに面会にきたのにそれがまったく意味がなかったことに気づき、自分の意図を、存在そのものを疑うわけです。

これはわたしの個人的な解釈ではあるけれど、フランス人というのはひじょうに個人的ではあるけれど逆にとても人道的というか献身的なところもあって、常に人の役に立ちたいと思っている人がいることも確かで(もちろん全部ではありませんが)、もしそんな人が「Je ne suis pas là pour ça」と言ったときには、「わたしはあなたの役に立つためにいるんだよ」と言ってるようにおもえたり…。

つまりこの原題は何を言いたいのかといえば、愛されるか愛されないの問題ではなく、あくまでも「個」と「意思」がその根底にあるわけで、 人が個として、個という人のために役に立つべきもの(存在)であること。そして、そうあるためには、個人だけの損得や利益を超えた無償のものも必須であるわけで、もしかしてそれが「愛」につながるのかもしれません。だから父親の隠れた愛情を知ったときに初めて、ジャン=クロードは、自分はフランソワーズを愛する見返りに彼女からも愛されたいのだったという、いわば「卑しい感情」に気づいたわけです。でも愛とはそういうものではないのですね。だから最後に、彼女の幸せのために(または好意に報いるために)ジャン=クロードはタンゴ教室にすっくとその姿を現したのです。

ちなみに、"suis" の原形 ÊTRE は「物・人の存在や状態」を表わす言葉でもあります。

映画の感想はこちら
| 2007/01/11 - 23h | 映画のなかのフランス語 | Comment (2) | この記事のURL |


capote ですと!?
このところずっとフランス語漬けだったので、頭がちょっと飽和状態。
つい先日なんか、1ヶ月ぶりに観た映画『カポーティ』で、思わず笑っちまうようなことがありました。

長丁場の仕事から解放され、日比谷までぼんやりと散策。
シャンテ・シネで久しぶりの予告編の波、波、波。
この予告編というのは不思議なもので、いい出来のものだと映画同様思わず見入ってしまうのですね。
そんな見入った状態から解き放たれないまま本編へ…。

黒い画面に小さいフォントで控えめに映画のタイトル文字が映し出される。

capote

ここで「ぷっ」と吹き出しそうになったのは、きっとこの映画を観た数多くの観客のなかでもきっとわたしぐらいでしょう。
実はこの capote は、フランス語の俗語で「コンドーム」のことなんですね。

はて、わたしは何の映画を観にきたんだっけな?という疑問符が頭をかすめたのは言うまでもなく、と同時に、わたしの脳みそは相当フランス語に侵されてるなと実感。

ついでに書いておきますが、コンドームはフランス語で普通には un préservatif という言葉を使います。
une capote の方は「俗語」なので悪い子が使う言葉です。いい子は決して使っちゃいけませんよ。フツー語の方を使いましょう。いえ、別に使わなくてもいいですけど。いややっぱり使った方が身の安全のためにもいいかもしれません。

ところで、capote は男性が装着するものなのに、なぜ女性名詞なのでしょう?
あ、そんなことはおいといて…

またついでに書いておきますが、コンドームは英語で condom ですが、これと同じ名前の村コンドン(Condom)がフランスにあって、これは、ミシェル・セロー主演の映画『しあわせはどこに』の舞台にもなっていたりするのですが、この村、伊達にこんな名前がついているわけじゃないみたいで、なんとコンドームの博物館(!)があるらしいです。
今さらこんなこというのもなんですが、コンドームで村おこしを計っちゃうなんて、やっぱりフランスってすごい国です。

しかし、久しぶりの更新がこんな話題って…
| 2006/11/12 - 23h | 映画のなかのフランス語 | Comment (6) | この記事のURL |


葬式の頭
先日書いたエントリーのなかで、フランス語のエスプリは字幕には出ないうんぬん… などと書きましたが、もっとわかりやすく、何かいい例文はないかなあとおもっていたら、ありました。

TVドラマのなかで聞いた台詞。

とあるカフェに男が二人、座っている。
ひとりの方は、明日結婚式を控えているというラブラブな状況なのだが、しかし、その日の朝、鳥が血だらけになって死んでいるのを見たというのだ。なんだか不吉な予感…。なにか意味があるんじゃないだろうか、などと迷信深いことを話しているところに、顔見知りの若者が店に入ってくる。そして神妙な顔して座っている二人を見るなりこう言う…

Et ben dis donc, vous en faites une tête d’enterrement, hein !

意味は「なんだい、しけたヅラして」ってな感じでしょうか。
もっと丁寧に言えば「なんだい、浮かない顔して」「憂鬱な顔してるな」とか…

これを聞いて男は気を取り直し、明日結婚する友人に向かってこう言う。

Dis donc, à propos d’enterrement, on a invité tous les gars de la ville au café … ce soir, c’est la fête !

直訳すると「そうそう、葬式のことだけど、町の男みんな店に招待したぜ。今夜は騒ごうぜ!」と言ってるわけで、でも本当は「葬式」じゃなくて結婚前夜祭とでもいいましょうか、そんな感じなんですけど、ここでわたしが言いたいのは、先の若者の言った言葉 enterrement(葬式・埋葬)をうけて、男が言葉をつなげているわけで、いわば言葉の掛け合い、ピンポン的会話といいましょうか。
フランス映画やTVなどを見ていると、この手の、相手の言葉をうけて会話をつなげるテクが、とても多いような気がします。

もちろん日本でもこういった言葉の掛け合いで会話することもあるけれど、なんというか、あまりやりすぎるとうさん臭いというか(笑)、なんだこいつ?てな感じにもなりかねない。

そして、この「à propos d’enterrement(葬式のことだけど)」がもし字幕になったときどうなるのだろう?と考えると夜も眠れないわけですが(笑)、たぶん字幕はつかないのではないかと想像します。
ついても、「ところで…」だけになってしまうのが関の山?
葬式はどこへ…?(笑)

残念といえば残念なんですが、けっきょく原語で映画なりドラマなりを理解するということは、こういうことなんだろうとおもいます。生の会話を聞いてぷっと吹くか、字幕を読んでしれっとするか、この辺は言葉を知ってる者勝ちという気もします。


余談ですが、ここで間違っても la tête d’enterrement などと言わないように。
なんか、棺おけの中に入っている頭だけとか、これから埋める頭を作っている人などとカンチガイされそうです。


「頭」続きで余談ですが、grosse tête という言葉があります。
この言葉がまた不思議でして、

Il est une grosse tête
のように、etre+不定冠詞がつくと「物知りだ」「頭の切れる人」という意味になって

Il a la grosse tête
avoir+定冠詞を使うと「思い上がっている」という意味になるから不思議。

そしてまた faire une grosse tête は、「相手の顔がはれるほど殴る」という意味になるらしく、そうなるともうエスプリなんてあったもんじゃありません。というか、“でかい顔をつくる”…で、そのまんまじゃありませんか!
| 2006/10/16 - 23h | 映画のなかのフランス語 | Comment (3) | この記事のURL |


映画のなかのフランス語
外国語の勉強をはじめるきっかけというのは人それぞれだとおもうのですが、多くの人がそうであるように、わたしも映画がきっかけでした。
年代的にわたしはゴダールとかベネックスだったんですが、映画のなかで言っている台詞が原語で聞き取れたらどんなにいいだろうとおもい、期待を胸にフランス語の学校に通いはじめたのが今から20年以上前。

当時は横浜ではなく関西に住んでいたので、京都にある日仏学院に行ったんですが、そこの館長さんがすごく男前で(笑)、彼のクラスを取りたいなあと努力したんですが(もうここで目的が変わってる)、残念ながら館長さんは上級者だけのクラスを担当、わたしが入った初心者のクラスの先生は、腹の出かたとうさぎのイラスト入りTシャツのミスマッチがある意味個性的なおじさんでした。

数年前に京都に行ったとき日仏に寄ってみたら、まだその先生はいらっしゃったようなのでここで名前は伏せますが(笑)、当時の、まだフランス語なんてなんにも知らなかった時代が、その先生の名前を見たときに走馬灯のようにかけめぐってしまったのを覚えています。

別にわたしはここで思い出話をするつもりはないのですが、実はわたし、そこではじめて字幕なしのフランス映画を観たのですね。
んで… その衝撃といったら! もうぜんぜんわかりません(笑)
今では、こんな映画あるんか?といわれるようなブレッソンの「白夜」も、たしかそこで観たとおもいます。(日本で「白夜」というとヴィスコンティですもんね)

東京にある日仏学院でも、字幕あるなしにかかわらず映画の上映会が定期的に行われていますが、この字幕なしの映画を観る勇気というか、わからなくても観つづけるずぶとい根性というか、言葉がわからなかったら映像だけで理解しろというか、映画は素で観るものという精神を、わたしはそこで学びました。これってけっこう大きかったです。もしかして語学の上達よりも大きかったかも。というか、実際そこの学校に行ったのは半年ぐらいだったので、フランス語の上達なんて微々たるものでしたし。

わたしが言うまでもない当然な事実としてあるのが「サイレントをご覧なさい」ということで、良い映画というのは字幕がなくても話の展開がおぼろげながらわかるものなのですね。
じゃあゴダールは何だ?とつっこみされそうですが、字幕があってもわからない映画作家の代名詞として君臨し続けてるあのおやじは特別ですから。映画は死んだ!と勝手に思い込んで、映画を生き返らせようと戦いを挑んでいるようなところがあるので、この際彼の映画は除外しましょう。

おもうに、字幕というのはシークエンスの要約みたいなもので、観客に映画の内容の進行具合をわからせるためのもので、はっきり言って、例えばフランス映画に関して言えば、フランス語のエスプリみたいなものは字幕にはでません。というか、出せません。


つづき→ 葬式の頭
| 2006/10/12 - 12h | 映画のなかのフランス語 | Comment (4) | この記事のURL |


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